いつも主治医に「まずは自分の健康、その次は家族、仕事なんて3番目よりもっと後でいいんですよ。優先する順番を考えていかなければいけないよね」と言われているのだけれど、『自分』ってなんだろう、と考えてみた。
生まれて40年。1620gの未熟児で生まれた私は、保育器の中で育てられた。母は私となかなか会わせてもらえず、病院からなにか連絡があると飛んでいくのは父だったと聞いている。自宅に戻ってからも、風邪を引かないように、沐浴の時には撮影用のライトを照らして部屋を暖め、絶対に湯冷めをしないようにしていたとか。「アトピー」なんていう概念がまだ世の中に浸透していなかった頃、とてもひどい湿疹のために毎日薬を塗り、両手・両足にはガーゼの上から8本の包帯が常に巻かれ、ほとんど遊べなかった。2年保育で入った幼稚園は3ヶ月ぐらいで退園させられ、ずっと家にいるしかなかった。小学校に入っても、ほとんど友達ができず、班を作っても席を離されたり、体育の時間には手をつないでもらえなかったりした。プールの塩素が良くないからと、水泳もさせてもらえなかった。5年の10月に掃除中に窓から転落、頭蓋骨骨折で40日入院した後は、もっと仲間はずれにされた。親にはいえなかった。
中学に入っても地元の中学だから、結局同じようなものだった。3年の時、小学校から結構仲良くしていた子が脳腫瘍で亡くなった。夏休みに20時間以上もの時間をかけた手術に耐えたけれど、生きては退院できなかった。彼のお葬式の時にふざけるクラスメートが許せなかった。それを注意しない担任はもっと許せなかった。ごく少数の友人を除いて、人が信じられなくなり、ストレスから喘息発作を起こすようになった。5日入院して、3日学校へ通って、また入院して、学校へ行っての繰り返しだった。いつ発作が起きてもいいように、近くの病院では部屋がキープされていた。高校受験も発作が起きて受験できないと困るので、併願で臨んだが、1年の時の担任に「期待していたのに、併願しかできないほど成績が下がっていたなんて」と罵られた。
何とか公立高校に入学できたものの、兵庫県の高校だったので、地元の持ち上がりに等しく、やっぱりいじめられた。剣道部のマネージャーをしていても、道場の掃除など目立たないことは私の仕事で、部員の世話などはさせてもらえなかったし、校舎の窓から水をかけられたり罵られることは日常茶飯事だったから、ストレスからの喘息発作はおさまらず、留年を余儀なくされるほど出席日数が少なかった。父親の転勤のために転校することになったが、春休みも1日も欠かさず学校へ行き、レポートなどを書いてお情けで2年生にあげてもらって、編入試験を受けることができた。
転校先には過去の自分を知る人がいない、パラダイスだった。
そこでは文化祭の実行委員をやり、そのときの先輩方に見初められて、生徒会役員もした。
生徒会役員の時には文化祭のために朝の7時から夜の7時まで学校にいて、警備員に追い出されたりもした。
専門学校時代は通学が遠く、体があまり丈夫でなかったので、病院実習の後は休んだりして、出席日数の足りない教科が出て留年しそうになったり、卒業する時も後ろから5番目で、できのいいほうではなかった。国家試験もきっと似たような物だったと思う。
東京の学校を出て、西宮に戻ってきたので就職がなく、人を頼って、就職をした。就職させていただいたのだから、恩に報いる為には一生懸命働くしかなかった。デートもプロポーズも、仕事が優先だった。
過去を振り返ると、あんまりいいことなかったかも。ずっと迷惑をかけてきた親には心配をかけられなかったので、しんどいことや悲しいことは何もいえなかった。
創価学会の活動や、消費者団体の活動に忙しかったことや、周囲のお母さんたちに比べてやや高齢だった母は、私の幼稚園の送迎すらしなかったので、子供の足で30分以上かかる通園を一人でしなければいけなかった。それも、よそのお母さんたちは送迎をしている中、いつも悪いことをしているかのようにこそこそと幼稚園に行き、帰らなければならなかった。
窓から落ちて入院した時は、さすがにずっとそばに付いてくれていたが、昼間はいろんな活動に追われ、病室にいなかった。そして、その時の苦労話を何度も聞かされ(但し、病名は聞かされず)自分が入院すると、当然のように私に同じことを求めてきた。
高校の夏休みに胆石で入院した時は毎朝電話がかかってきて、食べたいもののリクエストをされた。当然それは私の手作りでなくてはならず、洗濯や掃除といった家事をして、さらにリクエストされた料理を作って、毎日横浜から池袋まで通わなければならなかった。
検査技師の学校を卒業して、国家試験までの間、「家にいるから」という理由で私が食事のしたくをしていた。世間の人達が出勤する頃、布団に入って昼過ぎまで睡眠をとり、目が覚めたら風呂に入って体をたてなおし、整骨院でマッサージをしてもらいがてら夕食の買い物に行き、夕食を作る。食べた後は食器を洗い、後片付けを済ませてから夜中に勉強をしていた。
就職してからも、母親が狭心症の疑いで心臓カテーテルの検査を受けるのに、京都の音羽病院まで車で送迎し、入院中は仕事が終わってからできる限り病室に顔を出さなければいけなかった。
仕事の帰りの遅い私に夕食が用意されていることは少なく、「家に帰って食べる」とカレンダーに印をつけていても、食べる物がなく、近所のコンビニのお世話になることが多かった。