大義名分とあきらめ・考え方の違い

昨日は穏やかな気持ちで診察を受けることができた。
先生に、実習の日程表も見せて、「12月4日でやっと終わりだね」と確認されて、うなずいて。
「本当はヘルパーなんかしなくてもいいのに。資格取らなくてもよかったんじゃないか」と先生は何度もおっしゃる。このことが私に無理をさせているとわかっておられるからだろう。実際に、実技講習のあとの反動による落ち込み、不安、焦燥感はとてもひどくて辛かったから。毎週毎週、自分のコントロールができなくて先生の前で一杯泣いたもんねぇ。


先週切った指の怪我がよくなったので、初めて水仕事をしたこと、指の怪我、という大義名分があって、家事をしないことに罪悪感をあまり感じずに過ごせた事、病気だと診断されて1年がたち、区切りのような、あきらめのような気持ちが働いた事、その中に院長と出会ったときに感じられた「相手は自分を必要としていない」という感情も含まれていることなどを話した。体調面はともかく、連休中も心穏やかに過ごせたことも話した。
先生は「何となく、落ち着いているみたいですね」と言ってくださり、「薬があっているのでしょうかね」という私の発言にうなずいておられた。
「でもね、指の怪我、という大義名分が立って家事ができないことに対する罪悪感を感じなかった、という話をしていたけれど、本当はそうじゃない。怪我をしたから、というのではなくて『うつ病』があるから家事ができない、休養が必要なんだ、ということなんですよ。本当の大義名分は『うつ病』だからなんだ、という風に発想の転換ができるようになってくださいね。そうじゃないと、また無理を重ねてしまう事になるから」
先生が念を押すように繰り返しおっしゃった。わかっているんだ、本当は。先生が心配してくださっていること、自分が無理できない事。でも、普段ならできていることもできなくなっているような自分がとても間抜けで、旦那からも失敗するたびにたしなめられて。そう思ったら、涙が流れていた。
「院長と出会ったとき、『あぁ、もうここでは必要とされていないんだ』と感じた。そう思ったら、これも一つの区切りかな、と思えた」
と話したら、
それまでは
「多少なりとも自分のことを受け入れられるようになってきたのかもしれないですね」
とおっしゃっていた先生の顔が曇り
「あれ?そういうあきらめ方なの?」
「あなたが職場に大きく貢献をしてきたことは事実で、それは誇りに思っていいことなんですよ。もっと自信を持っていいことなんです。だって考えてごらんなさい。人の倍以上頑張ってきたんだよ。家事をして、育児もして、仕事もして、さらに学会までこなしてきたんです。頑張りすぎたんですよ。だからしばらくはゆっくりしたらいいんです。あと5回の実習でヘルパーのほうも一区切りつくし、とはいっても実習が一番大変だというけどね」
「もっと手抜きをしましょう。楽をしましょう。もっともっと自分を甘やかしていいんです。自分に甘くしてあげなさい」
そうおっしゃる先生に「どれぐらい楽をしていいのかわからないです」というと「あなたがこれぐらいでいい、と思っていることの半分ぐらいでいいと思いますよ」と言われてしまう。


…思わず、そんなに手を抜いたら、私はただの怠け者やん、という言葉を飲み込んだ。