気を遣わないで・放っておいて

毎年5月5日のこどもの日には、おばあちゃんがお赤飯を炊いてくれて旦那実家でごちそうになります。
孫のためなら何とやら・・・で好意でしてくれているものだと思っていたけれど、この前、おかずを何にするかで息子とやりとりをしているのを何とはなしに聞いていたら
「ばあちゃんはママにちょっとでも楽させたろうと思って頑張ってんねんで」ですと。
そりゃあ、わたしはたいしたことのできないだめ母で、怠け嫁だけど、誰も楽させてくれなんて言った覚えはない。この頃ずっと調子が悪いものだから
「息子のためじゃなくて私のためにしてくれるなら、してくれなくてもいいよ」
と口から出かけた。


そしてずっとその一言が引っかかっている。私は姑の荷物なの?何気ない悪意のない言葉なので、さらっと流せれば一番いいのだけれど、どうしてもそれができない。長男の嫁のくせに姑の手を煩わせるダメ嫁なのか。孫のためだと思っていたら嫁のためだったなんて。
その一言さえ耳にしなければ、とても楽しい1日になったはずなのに。子供の(祝いの)ための宴ではなくて、「自分を楽させるため」の会食なんて悲しすぎる。でも、本当はその気持ちに感謝しないといけないはず。
まさしく「愛情を与えられることに臆病」な「うつ病的な考え」にとらわれている私。


外から聞こえてくる音にやや過敏になっている。子供が遊ぶ声、泣く声、ボールの音・・・・・スーパーに行くにも雑踏の雑音、知人に声をかけられるかもしれないという恐怖から逃げるために、携帯で音楽をかけてヘッドホンで耳をふさいでいる。このスタイルなら声をかけられたときにすぐに対応できなくても「音楽を聴いてて聞こえなかった」と言い訳ができるから。肩をたたかれたりすれば、そのときに振り向いて、ヘッドホンを外す間に心構えができると思うから。
携帯の音楽も今は聴きたくない煩わしいものはすべて放り出して、BGMとして聞き流せる程度のものに入れ替えたので、今の環境ではこれが一番ましかもしれない。


テレビもワンピースを合計20分見るのがやっとぐらい。それ以上になるともう集中できない。ワンピースだって実際に見てるのは適当なんだけど、漫画でストーリーがわかっているから、おもしろそうなところだけを拾って見ることが可能なので、なんとか旦那と一緒に見られるって感じ。


GWのあいだ、診察を受けなくてもいいようにお薬をもらっているけれど、間に診察を受けに行かないと、つぶれてしまいそうだ。