嫌な思い出

息子が、どうしてもママと寝たいらしいが、パパがお休みの間は勘弁してもらう事にしている。とてもじゃないけど、体中が痛くて動けなくなるから。せめて、みんなが昼間いなくなるときまでは我慢してくれ〜って感じです。
ママがそばにいないので、なかなか寝付けない子供の話を、旦那としていたとき、ふと自分の過去を思い出した。


私って「夜驚症」←こんな字であってるかな?だったんだよね。しかも大嫌いな長兄の受験勉強の時期。ハイジみたいに夢遊病にはならなかったみたいだけど、とにかく毎晩のように叫び倒していたらしい。受験の邪魔になるから、長兄からは文句を言われるし、親にもいろいろ言ってたみたいだけど、親は「ストレスがたまってるんでしょ」と取り合わなかったらしいので、ますます私たち兄弟の仲はこじれていったように思う。
そんな事を思うと、「自分はいらない子供だったんじゃないか」という考えがふつふつとわいてくる。これだから帰省したくなくなるんだよねぇ。


思い出すこと、一杯ある。
足のかかとにとげが刺さって、どうしても抜けなくて、そのころ、家庭科だか保健だかで「身体の中に入ったとげや針はちゃんと処置しないと、血管の中をめぐって心臓に刺さって死んでしまう」というような話があって、1人残された家で泣きながら「死にたくない」と思ってとげと格闘していた。母親が帰ってきたとき、泣いてる姿を見られて、とげの心配なんてしてくれなくて「そろそろ泣きたいころだったんだよね」といわれた事があった。どうして体の心配をしてくれなかったんだろうか。とか


頭を怪我して、ずっと学校を休んでいて、やっと授業にも出られるようになったころ、家庭科のテストがあった。洗濯マークとか、家庭科の基本のテストだったけど、普段家事をしていた私にとっては、授業なんてうけてなくても知っている事が多かったから、結構いい点が取れて、先生が「chopperさんは勉強できない環境にあったのに、こんなにいい点が取れているのは普段、おうちでよくお手伝いをしているからで、とても素晴らしい事ですね」とみんなの前でほめられて、うれしくて家に帰って報告したら「あんたならそれぐらいできて当たり前よ」みたいなことを言われ、ほめてもくれず、喜んでもくれなかった。「普段から家のことをしているんだから、そんなことは常識でしょ」というような事をいわれた気がする。学校でほめられても、家でほめられないんだから、ますます自分にとって「家事はできて当たり前」の事だったんだと思う。裁縫や編み物など、自分の得意分野は私に手を出させなかったから、今でもそういう分野はまったくできないけどね。


喘息がひどかったときも、親に迷惑をかけるだけの存在だったに違いない。起き上がっておくしかできないほどの大発作が起きると、タクシーが来るまでの間に、母親は必ず自分が風呂に入って身支度を整えてから出かけた。病室はいつもナースステーションの前で、連絡すると必ず暖めてあった。点滴をすると、嘘のように発作がおさまっていく。でも、精神的なものが大きかったから、担当医じゃなくて当直医のときは、点滴の中にネオフィリンを何本も追加されて、さすがに3本目が追加されたときには動悸で心臓が破裂しそうで、怖くて怖くて泣いて訴えて抜いてもらった事もある。
私の状態がよくなると、母親は家に帰ることが多かった。もう中学生〜高校生だったし、特別いてくれたからって、何もすることなかったし。自分で勝手に退院してきた事もあったっけ。学校の文化祭があって、病院から学校にいって、そのまま帰宅したりして。


いやなこと、たくさん思い出してきた。
もうやめよう。